SOME MAILS TO APPLE JAM.(アップル・ジャムへの感想メール集へ)

※中央公論新社の了解を得て、長編小説『アップル・ジャム』の第1章を収録します。

アップル・ジャム
APPLE JA M


CHAPTER 1/Welcome to Macintosh

 木立ちの向こうの澄んだ空を見上げ、男は瞬きした。ゆっくりと空を横切っていく飛行船の腹がきらりと光るのが目に入った。なんだか、探していたものを見つけたような気になった。
 歩道の端に寄り、ジャケットのポケットから煙草を取り出し、一本抜いて乾いた唇の間にくわえると火をつける。ちょうど昼休みの時間帯で、歩道には大勢のビジネスマンやOL達が溢れていた。ガードレールに腰かけ煙草の煙を吐き出しながら、もう一度、ポルシェ911の6気筒エンジンを二機搭載しているという飛行船を見上げた。船体にフィルム会社のロゴを刷り込まれた飛行船は、かなり低空を、風に乗ってすすんでいく。あれは一応コマーシャルみたいな振りをしているけれど、そんなはずはないな、と彼は考える。東京都の隅々をカメラに収め、記録をとりつづけているのに違いない。
 あれは、この国の都心部の監視船なのだ。
 もしもおれが反政府組織のゲリラかオウムみたいな宗教団体の実行部隊で、背中に手動ミサイルでも背負っていて、あの飛行船を撃墜できたら面白いだろなと夢想する。銀色の船体の飛行船は一瞬のうちに爆発し、炎に包まれる。その残骸が燃えながら地上に落ちてくるのだ。
 煙草を投げ捨て、革の書類ケースを小脇に抱え右手をズボンのポケットに突っ込むと、男は歩道を歩き始める。前を歩く男達のスーツの背中を眺めながら、炎に包まれた
 文房具の専門店が目に入り、雑踏を避けるように、男は中に入った。店内に、客はまばらだった。
 レジの横にある、中二階へつづくエスカレーターに、淡い黄色のスーツを着た女が乗るのが目に入った。かるく内側にカールした髪が背中にかかっている。
 膝丈のスカートの裾から伸びた、彼女の細い脚に引き寄せられるように、男もエスカレーターに乗る。女は右足に重心をかけ、左手をかるくエスカレーターの手摺においている。ベージュのパンプス、スポーツで鍛えたような、よく引き締まった足首。ストッキングに包まれた脚は、きれいにラッピングされたキャンディのように甘い感じがした。
 エスカレーターを降りた女が、左側の通路のほうへ歩き始めた時、ちらりと横顔が見えた。オレンジが混じったようなルージュが引かれた唇と、つんと尖った白い鼻が目に入る。年齢は、二十二、三歳といったところだろうか。
 男は商品が並べられた通路を足速に、まっすぐに通り抜け、彼女のいる棚のほうへ回る。ゆっくりすれ違う。コロンの匂いがした。
 その瞬間、ちらりと顔を盗み見た。
 端正な、美しい顔をしていた。だが、どことなく奇妙な印象がのこった。ひんやりと冷たそうな頬だ。男は胸の奥が切なくなるような、不安定な気分を味わい、だがそれでいながら眠っていた残酷な気持を掻き立てられるような感じがした。たとえば右手で、左右の頬を力いっぱいしめつけてやったらどんな気分だろう?
 立ち止まり、棚に並べられた円筒形のファックス用紙を選ぶ振りをしながら、男は女を振り返った。女は、ブルーのバインダーを手にとっている。銀色のブレスレットと腕時計がからみついた右の手首、体のなだらかな曲線。
 ふと、女がこちらを見た。
 視線が合ってしまう。
 くっきりした大きな瞳は、どこかぼんやりしている。女はうつむいた。あの瞳だったんだ、と男は気がついた。どこか遠くを見つめるようなぼんやりとした瞳と、きちんと化粧した顔の他の部分の印象が、あるいはスーツに包まれた体全体の印象がちぐはぐなのだ。
 女はバインダーを棚に戻し、ゆらゆら揺れるように、反対側の棚のほうへ消える。男は足音をたてないように気を配りながら、エスカレーターの降り口のほうへ移動した。もう一度女を振り返ってみる。その時、男は見た。女が、セロファンで包装された小さな薄べったい銀色のものを左手でポケットに忍び込ませたのだ。その素早い動作とぼんやりした瞳の印象がさらにちぐはぐな感じがして、男は少し驚いた。
 エスカレーターから学生風のカップルが降りてきて、小声で何か話しながら女がいるほうへ歩いていった。二人とすれ違うように、女はこちらにやってきて、下りのエスカレーターに乗った。エスカレーターを降り、レジへはいかずに、それまでの揺れるような歩き方のまま店を出ていった。
 男は慌てて女がいた棚の前へいき、艶を消した銀色の小さなケースを手にとってみた。五六〇円の正札が貼られた名刺入れだ。そいつを手にしたまま走っていって、エスカレーターに乗った。動いていく鉄の階段を駆け降りながら、ジャケットのポケットに名刺入れをしまい込んだ。
 外に出ると、今にも人込みに紛れてしまいそうな淡い黄色の背中が目に入った。機敏に人をかわしながら、男は女を追いかける。
 横断歩道の手前で、女は赤信号に止められていた。男は彼女の斜め後ろに立ち、自分のポケットからセロファンに包まれた名刺入れを取り出した。右の手のひらでケースを弄びながら、女の体の線を観察する。彼女はジャケットのボタンをとめていたから、ウェストがきゅっと引き締まって見えた。仕事のできるOLという印象だ。だが、今も瞳はぼんやりしているに違いない。
 そんな女がジャケットのポケットに、今自分が手にしているのと同じ、正札が貼られたままの名刺入れを忍ばせているのだと考えると、男は思いのほか興奮した。草食動物を狙う、草原に潜むピューマにでもなった気分だった。あの女を捕まえ、監禁し、何度でも顎をわしづかみにしてやりたい。
 信号が青に変わり、女は歩き始める。男は同じ間隔を保ったまま、後を付けつづける。
 蕎麦屋から若い女の二人連れが出てきて、一人のほうが女に声をかけた。
「ユーカ、どこへいってたのよ」
 立ち止まった女が澄んだ声で言うのが、通り過ぎていく自動車の音の合間を縫って男の耳に届いた。
「なんか、食欲なくて。ぶらぶらしてたのよ」
「わあ、えらいんだ。ダイエット?」
 三人は肩を並べて歩き始める。やがて、三人の女達は、男が午後訪れる予定になっている洋酒メーカーの建物に入っていった。偶然だなと思い、だが男はこの世の中に偶然なんてないんだと思い直した。あの女とおれがこうして出会ったのは、きっと運命なのだ、と。
 小さな安物の名刺入れが、自分にこれまでとは違う時間と空間を開いてくれる気がして、男は一人肩をそびやかした。
 あの女が、退屈している自分に何か甘いものを与えてくれそうだ。少なくとも彼女はすでに、洒落た名刺入れをひとつプレゼントしてくれたのだ、と男は思った。
 きれいに磨き上げられたガラスの自動ドアが開き、男はゆっくり受付けへ向かって歩いていく。顔をあげた時、思わずアッと声を出してしまいそうになる。受付けに、あの女が腰かけていた。人造大理石のカウンターに並んだ二人の女の、左側のほうが彼女だった。
 男は胸の内ポケットから真新しい名刺入れを取り出し、名刺を一枚出した。
「こういう者ですが、販売促進課の長田課長にお目にかかりたいのですが」
 両手で名刺を受け取ると、女は言う。
「失礼ですが、お約束ですか?」
「ええ。一時半に」
「かしこまりました。少しお待ち下さい」
 女は口元に笑みを浮かべ、右手で内線電話の受話器を取り上げた。新人研修で百回は練習させられたような、儀礼的な微笑だった。瞳からは、昼休みの時のような、ぼんやりした印象は消え失せている。
 女は<音村>という名札をつけていた。音村ユーカ……あの神秘的な瞳は消えてしまってはいても、それはどこか不思議な響きのある名前だなと思った。

APPLE JA M


 初夏の太陽は、まだじりじりとコンクリートの街を照らしつづけている。
 街路樹のマロニエにもたれながら、男はもう三十分もガラスのドアを見つづけていた。公衆電話のガラスボックスに映った自分は、他人のように見えた。そいつは派手な絵のついたグリーンのTシャツを着て、おまけに見慣れない眼鏡までかけているのだ。
 男は一度自分のオフィスに戻り、夕方以降のスケジュールをキャンセルし、出直してきた。アニエスbのグレーのスーツをジーンズとTシャツに着替え、途中の店で度の入っていない伊達眼鏡まで買った。
 ガラス戸が手前に大きく開く度に、ガラスに映った街路樹や建物や太陽の光がその表面をすべっていく。そして、何人かの人々が街に吐き出されてくる。そんな光景を眺めていると、男は商社に勤務していた一年前の自分を思い出した。一流企業とは言いがたかったが、それでも大きな会社だった。落ち零れ寸前の社員にとって決して居心地がよかったわけではないが、それでも思い出すと懐かしさが込み上げてくる。会社がフランス車の輸入販売事業を始め、男の仕事の内容は商社というよりは輸入車のディーラーみたいなものだったが、とにかく黙々と通ってそれなりの仕事さえしていれば毎月給料をくれ、ボーナスだって当時思っていたほど小額だったわけではない。何より、あの会社は少なくとも赤字ではなかったのだ。あの会社に勤めていた三年の間は、金策に走り回ることもなかった。
 男がひとつため息をついた時、またガラス戸が開いた。五、六人の男達が出てきて、すぐその後ろにあの女、ユーカの姿があった。男達の少し後ろを、ユーカは歩いていく。昼休みとは違い、バッグを持っている。
 男は少し遅れて、片側二車線の道路のこちら側を歩いていった。
 ビヤホールの前で、男達が立ち止まった。ユーカを振り返り、一人の男が何か話しかけている。ユーカが何か答え、別の男がさらに何か言う。皆の顔に笑顔が広がる。ユーカも微笑みを浮かべ、丁寧にお辞儀した。男達は、ビヤホールに入っていく。ユーカは一人で歩き出した。
 ユーカは赤信号で立ち止まり、男は人込みにまぎれ、彼女のほうへ道路を横断する。ユーカのすぐ後ろに立った。風が吹き、ユーカの髪が揺れる。抜けるように白い首の後ろに、ぽつんとホクロがあるのが見えた。
 信号が変わり、ユーカは今までとは違った、ゆっくりした足取りで歩いていった。彼女の歩き方を見ていると、胸が騒いだ。後ろから抱きしめてしまいたい衝動にかられた。抱きしめ、口をふさぎ、耳元でささいてみたい。だが、何をささやけばいいのだろう?
 花屋の店先を覗き込み、ユーカはそれからレコードショップに入った。それほど熱心そうにでもなくCDを眺め、何枚かを手にとるとまた気がなさそうに棚に戻し、再び外に出て歩き始める。
 瞳が、濡れたように光り始めていることに男は気がついた。おれの女神が帰ってきた、と男は感じていた。遠くを見つめる、ぼんやりした瞳の女が帰ってきたのだ、と。
 ユーカは地下鉄の駅に入り、定期券を見せると改札口を通過していく。彼女の背中を視線で追いながら、男は切符を買う。ユーカは、丸ノ内線のホームへ降りていった。自動の改札口を通過すると、ゆっくりとした足取りで、男はユーカの淡い黄色の背中を追う。ゆらゆらした歩き方の特徴をつかむと、追跡 にはそれほど神経を使わずに済んだ。ちょうどホームに地下鉄がすべり込んできて、男はユーカの隣りの入り口から乗り込んだ。人込みをかきわけ、ユーカに近づいていく。
 ユーカは新宿で降りた。駅の構内とつづいたビルの中の、若い女達でごった返しているアクセサリーや小物を売る小さな店に入ると、ユーカはイヤリングを手にとった。
 男は、店の表にある自動販売機で煙草を買いながら、じっとユーカの指の動きを目で追った。盗むんだユーカ、盗め、盗め、そいつをポケットに入れてしまうんだ……と男は思わず心の中でユーカに話しかけている。男の鼓動は速くなっていた。いくつめかの金色のイヤリングを手にしたユーカが、一瞬他の客の影に隠れて見えなくなった。すぐにユーカは人込みの中から体を押し出すように、店の外に出てくる。華奢な手のひらには何も握られてはいなかった。イヤリングは、おそらくはポケットの中に消えたのだろう。
 あの女はきっと、と男は考えた。ほんとうはピアスの穴も開けられないような臆病な女なんだ、と。
 西口広場のほうへ向かうユーカを追いながら、男は密かに安堵の溜め息をついた。そして、おれはいったい何をしようとしているのだろう、と考える。自分でもよくわからなかった。ただ、今はあの女を見失いたくなかった。あの女の孤独に寄り添っていたかった。
 階段をのぼり、ユーカは外に出た。人の数がまばらになったので、男は歩調を緩め、ユーカとの距離を置くことにする。
 地上の広々とした歩道を歩いていき、ユーカは高層ビルのひとつに入った。中はがらんと吹き抜けになっており、遥か上のガラスの天井の向こうに青空が見えた。昼間見た飛行船は、このビルディングの上も飛んだのだろうかと男は考える。
 広い一階のロビーでは、人類の進化を示す模型やパネルが展示されていたが、客はほとんどいなかった。展示会場の周囲には、喫茶店や銀行やスポーツ用品の店や、旅行代理店がある。小さな街、あるいは核シェルターの内部のようだった。正面の壁には、巨大な時計が架けられ、時計の下には噴水がある。噴水の周囲には、白い丸テーブルと椅子がいくつか置かれている。
 男は周囲を見回した。淡い黄色のスーツを、カラフルなリンゴのマークの看板が出された店の中に発見した。アップル・ショップである。彼はまっすぐ歩いて噴水の近くのハンバガー・スタンドへいき、コーヒーをひとつ注文する。そこからだと、ショップの全体を見回すことができた。
 ユーカが微笑みながら、店員と何か親し気に話している。
 ビルディングのちょうど真上で飛行船が爆発し、その破片が燃えながら落下してくる様子を空想しながら、男は紙コップの熱いコーヒーをすすった。燃える破片はガラスの天井にぶつかり、ガラスは割れて粉々になり、きらきら光りながらロビーに落ちてきて散らばる。女達の悲鳴が聞こえ、人々は逃げ惑う。
 ユーカが、ショップのカウンターの上に置かれた書類に何かを書き込んでいた。それが終わるとバッグから財布を出し、免許証か社員証、あるいはクレジットカードのようなものを店員に見せている。
 やがて店員から封筒を受取り、それも紙の手提げ袋の中に入れると、あの独特の歩調でショールームを出てきた。ゆっくりこちらに向かって歩いてきて、途中で立ち止まると大時計を見上げた。そらした喉が、濡れたように眩しく見えた。男もつられて後ろを振り返り、時計を見上げる。
 ユーカは、男のすぐ近くの、白い椅子に腰を下ろした。ガラス天井から差し込む光が彼女にも落ちている。男は空になった紙コップを握り潰し、ダストボックスに放り込む。パソコンのショールームのほうへ、しっかりした足取りで歩いていった。
 ショールームには、カラフルなアップルのマークが記された何台ものコンピュータが並べられている。ひとつのコンピュータのモニター画面には、海の底のコンピュータ・グラフィックが映し出されていた。海の底を、CGの魚達が泳いでいる。宇宙を思わせる画面のものもあった。こちらに向かって、時折、流星が飛んでくる。
「いらっしゃいませ」
 店の制服を着た若い店員が声をかけてくる。背の低い、髪を少しばかり脱色した男だ。カウンターヘいき、男は水色の封筒を手にとってみた。中身を取り出すとパンフレットが入っている。<NIFTY-Serve >。パンフレットの表紙には、そう記されていた。

●気にいったらつづきは本でお読みください。