第3章 ポケットにはランボー詩集、胸のなかには牙を

 南へ。ただひたすら、南方へ。
 それが、ランボーにとり憑いた欲望であった。ランボー以前の詩人達や作家達にも、そういう欲望は何かあったはずだ。ボードレールにもヴェルレーヌにも、ポーにもそれはあった。あるいは、ランボーにつづく人達にも、それはあったにちがいない。あの知性が洋服を着たたようなポール・ヴァレリーにさえ、それはあったのだ。
 だが誰も、ランボーのように激しく求めることはなかった。ランボーのように、最後まで求め続けた人はいなかった。
 ランボーの詩は素晴らしい。そいつに刺激され、ぼくはさらに読み、疑問にぶつかる。するとその疑問について、何年もにわたって考えてしまうのだ。
 たとえば『イリュミナシオン』は小林秀雄によって<飾画>と訳されているが、ほんとうはどういう意味なのだろうか。
 <明かり>という意味だとか<天啓>であるとか、神秘主義的用語の<照明体験>だとかいろいろに言われてきたが、考えれば考えるほど迷路入り込んでしまう。
 だからこの頃は、ランボーの詩や哲学は、それほど複雑なものではなかったのかもしれない、と思うことにした。
 むしろ、ランボーの詩はシンプルである。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」がシンプルであるのと同じように、そいつはすっきりしているのだ。すべての詩において、彼はひとつのことをしか言っていない。
 衰弱していくことに抗い、南へ行きたい。その一点に向けて、黄金の紙に書き記したランボーの言葉は収斂していくのだ。
 ランボー詩集は、薄い。だからそいつを読む時は、わからない言葉など飛ばして一気に全部を読んでしまうべきだ。一定以上の速度のなかでしか、ランボーの言葉は響かない。
 詩を書きつづけるうちに、ランボーには南下したいという気持ちが次第にはっきりしていったのだろう。自分の欲望の形が、露わになっていったのだ。
 だが、それでは<南>とは何か?

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