禁断の文学

カナリア
◆幻のエロティシズム文学、4月10日幻冬舎アウトロー文庫で登場。

解説・徳大寺有恒。カバーイラスト・大西洋介。定価533円◆

 この小説は、1992年から93年まで『S&Mスナイパー』に連載された、マゾヒズム小説です。93年に『S&Mスナイパー』の版元であるミリオン出版から単行本として出版され、品切れ後はマニアのショップで丁寧に包装され数万円もで売られていたとのことだ。だが各社が文庫化をためらい、二度と陽の目を見ることはないだろうと思っていたら、幻冬舎の見城徹氏がアウトロー文庫を立ち上げ、その中に収録してくれることになった。
 読んでいただければわかっていただけると思うが、ぼくは別にポルノグラフィを書いたつもりはない。いや、もちろんこいつはポルノグラフィなのだが、それだけではないという意味だ。きっとここには、仏教にのめり込んだりオーラ体験を経て「善」なるものに向かいたいと願いながら、ときどき悪夢にうなされるぼくのような人間の本質が込められているような気がする。「山川さんの作品はたいがい読んでるんですけど、あのSM雑誌に連載したのだけは読めなくてェ」なんて女の人がけっこういる。もっともな話だと思う。
 でも、エロティシズムと向き合う時、日頃は理性的なさまざまな鎧で武装している自我が、裸にさらされる。人は思いもかけない自分というものに出会い、戸惑い、だが感動もし、人間の名で呼ばれる存在がいかに複雑で怪奇であるかを納得するのではないだろうか。それが、ぼくがこうした小説を書かずにはいられない理由なのだろう。

 文学は滅びた、という言葉さえも、今ではもうあまり聞かなくなった。
 それほど、文学の衰退は一気に加速したということなのだろう。
 だがぼくは個人的に、デジタルメディアやビートミュージックが決して表現できないものを、文学こそは表現し得るのだと思っている。もちろんそれは、自分なりにデジタルコンテンツや音楽を体験し、内面に取り込んだ上での感想だ。文学という、あるいは小説という枠組みは、少なくともぼくのなかではさらに新鮮に呼吸しつづけるだろうという気がしている。ぼくは、自分でもそうとは気がつかないくらい、とんでもない楽観論者なのかもしれない。もしそうなら、それを神に、あるいは『カナリア』にならって言うなら悪魔に感謝しよう。本書は幻冬舎アウトロー文庫の第一回配本に加えられ、最近作である『黒革と金の鈴』につながっていくことになる。
 文学はたとえばこんな場所でなら、新鮮な呼吸を続けられるのではないだろうか? 君は、自分を信じているかい? 人は、どれほどまでに己の神たりうるのだろうか。エロスはいつだって、死と隣り合わせだった。そんななかで、ぼくらはどれほどまでに裸でありうるのだろうか? 裸の肉体に、どれほどまでに純粋な、酔いしれるような苦悩を抱えているのだろうか? 準備はいいだろうか?
 手に入れずらいかもしれないが、探せばどこかの書店の本棚に埋もれているはずだ。見かけたら、ぜひとも手にとってほしい。
 ようこそ、さかしまの、CANARY BIRDの世界へ。(2003年10月記す)