死ぬな、生きろ   自らの心の内で暴れ回る「黒い獣」

 ぼくが高校生だった頃、若き日の大江健三郎氏が、人間はふたつのタイプに分類できるというようなことを書いていた。そのタイプとは、政治的人間と性的人間だ。ずいぶん昔に読んだ本なので書名も前後の脈絡も覚えていないのだが、「政治的人間」「性的人間」という言葉は脳裏に焼き付いている。
 性なんてものはほとんど知らなかったが、もしもほんとうに人間をこんなふうにシンプルに分類できるのだとしたら、自分は性的人間のほうだな、とぼくは感じた。
 その気持は、今でも変わっていない。
 だからこれまで、ぼくは政治的な発言はなるべく避けてきたつもりだ。県知事に立候補した人の応援演説なんてものを頼まれたこともあるが、丁重にお断りした。ペンクラブも、中途で脱会した。ペンクラブでは、一時期は獄中作家委員会という場所で一所懸命活動したつもりなのだが、ひとつ問題が生じると、自分はそんな偉そうなことが言える人間ではないという気持が頭をもたげてくる。そういう気持が、いつも心のどこかに潜んでいるのだろう。
 私生活でもいろいろな人を傷つけながら、あるいは酷い目に遭わされたりしながら、ぼくは生きてきた。でもすべては、自分自身の責任なのだ。だから文句など言わず、へこたれることもなく、今ある問題は自分一人で抱え込み墓場の下まで持っていけばいい。
 ずっと、そう思ってきた。
 誰でもそうなのかもしれないが、ぼくのなかには一匹の黒い獣みたいなのが棲んでいて、時々そいつが暴れ出す。するとぼく自身は、気が狂ったようになる。何かを壊したくなる。具体的な物や、人間関係や、時には自分を壊したくなる。
 そういう自分を抑えることが、不可能になってしまうのだ。
 だから性的人間と言うよりは、獣的人間と呼ぶのがふさわしいかもしれない。
 暴れ出した獣を抱えたまま誰かに逢うと必ず悪い結果をもたらすので、そんな時は一人部屋のなかでじっとしているしかない。ぼくが文学や音楽を、水や空気のように必要とするのは、それを獣が必要とするからだ。
 だがこれまでの人生で、ここ数ヶ月ほど、黒い獣が暴れ回ったことはない。
 最初は、今度もまた一人でじっと堪えているつもりだった。おまえに偉そうなことを言う権利などない、善良な人達をさんざん傷つけながら生きてきたおまえにそんな権利はない、石になって黙っていろ。ぼくは、自分にそう言い聞かせた。
 だが必死で堪えていたら、ぼくの内なる獣は息も絶え絶えになってしまった。やつが死にかけて、ぼくは初めて気がついた。その獣こそが、じつは最も独特なぼく自身だったのだ、ということに。
 獣が死ねば、ぼくもまた死んでしまう。
 あるいは生きていたって、あまり意味はない。
 獣とは、わかりやすい用語で説明するなら、ぼくのアイデンティティそのものだった。
 だからぼくは、自らに課した禁を破り、執筆途中の長編小説を中断して、ノートに日記を書くかわりにマッキントッシュで書いて書類フォルダに保存してあった個人的なメモを見返しながら、この本を書くことにした。
 ぼくは二十三歳で作家としてデビューして以来初めて、誰かと、たとえば本書を手にとって下さった読者の方と、本気で何かをシェアしたいと願うようになったのかもしれない。(<はじめに>より抜粋)


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 書き出し部分

 深夜、首都高速を走っている時など、このままステアリングを左に切れば死ぬんだな、と考えてみる。
 死は、じつはとても身近なところにある。
 最近、昔の友達が高速道路で無理心中を計り、車内に灯油を撒いて火をつけた。クルマは燃え、側壁に激突して大破した。彼は亡くなり、若い愛人はドアを開けて走行中のクルマから転げ落ち、かろうじて一命をとりとめた。
 翌日知ったことだが、そのわずか一時間前に、ぼくは彼がやがて亡くなる場所をクルマで通っている。家内から彼の死を知らされた時、ぼくは言葉が出なかった。


プロフィール
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