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3冊目の「ロックス」/吉川 敦 ぼくの手元にはすでに2冊の「ロックス」がある。最初の1冊は単行本で、1986年5月10日付けの初版だ。カヴァーの写真がクールで、それを眺めてるだけで全身に電流が走る。まだ、見たことのない人は一度、ぜひ見て欲しい。フラッシュバック感覚。とても良質なトリップ。今もこれを書くための参考にと本棚から取り出してきたのだが、気が付いたら最後まで読んでしまっていた。体内に流れる血が「ロックス」のフィルターを通して、あの頃の思いをよみがえらせてくれる。 もう、1冊は文庫本。単行本に遅れること2年。1988年8月25日。たしか「水晶の夜」のあとに出版されたはずだ。単行本よりは小さいので、よくカバンに入れ、持ち歩いていた。通学の電車のなかで、暇つぶしのファーストフードの席で、よく晴れた日の公園のベンチで……様々なシチュエーションでページをめくった。噴出するアドレナリンの質と量はどんな場所でも変わらず、特に滅入った気分のときには特効薬だった。周囲のくだらない会話や、店内に流れるBGMや、風の音なんか気にならなくなり、いつでも「ロックス」のパッションを味わうことができた。愛着があるのは断然、こちらだろう。 この文庫本の1ページ目……題名と著者名のページには、「Keep on Rolling! Kenichi Yamakawa」と黒のマジックで書かれたサインがある。1989年の夏、ルーディ関西初お目見えの際に貰ったものだ。ライブがはねた後、ライブハウスの前で機材の搬出が一段落したときに書いてもらった。そのときの写真が今でも引き出しの奥に大切に置いてある。ハッピーな空間にいて笑みを浮かべているぼくと、隣にいる生・健さんに緊張しているぼく。2つが入り混じって、白黒のぼくは複雑な顔をしている。(この日、1969年8月19日のぼくの心理状態はそれだけで1編の小説に、1本のフィルムにできそうで、それをここで書いてしまうと彼方に飛んでしまうので止めておきます)。1年間でぼろぼろになった文庫本にサインが加わって、それはぼくにとって何物にも代え難い大切な宝物と確定した。 もし、余命幾ばくかしか残っていないと宣告され、ぼくの体が火葬されるとしたら「ロックス」の文庫本と一緒に燃やして下さいと頼むだろう。 冗談でなく、結構、本気で。 これにあと、「ロックス」の初出である『すばる』1985年11月号でもあれば完璧なんだろうけど、それは持ってない。一時期、古書店で探していたときもあったが、もう、これ以上「ロックス」で満腹になる必要はないだろうということで諦めてしまった。 (その『すばる』にサインを貰っていたY子は元気なんだろうか? 今、どこで何をしているのだろう?) そこまでにぼくが「ロックス」に入れ込んでしまったのは何故だろうと自分でもよく思った。それ以前にも健さんの小説やエッセイなど読んでいたし、それはそれでとても好きだった。完成度といった面でも、初期な「さよならの挨拶を」や最近なら「安息の地」の方が上だと思うし、小説の形態からいっても、正直ぼく好みではないはずだった。 おそらく、一番の要因はぼくの年齢なんだろう。当時、ぼくは20歳ぐらいで、くだらない社会ってやつに出るべく模索していた。具体的にこんな職業に就きたいとかそういうレベルではなく、くだらない社会に対してどういうスタンスで生き延びていくのかが分からなかった。(今でも分からないという説もあるけれど……) 自分が何者になっていくのか不安でもあった。だからこそ、無性に刺激を欲しがっていた。それは体がではなく、脳味噌が新しい刺激を常に求めていた。文学、科学、美術、映画……欲望のままに注入していった。 そんなカオスな脳味噌にひとつのベクトルを与えてくれたのが、健さんの作品群であり、結実したのが「ロックス」だった。 10年の年月が経って、振り返ると(イヤな言葉だな……)、そんなふうに思える。 誰もが、大なり小なり、後の影響力に差異はあるかもしれないが、そんな事柄を心に持っているのだろう。僕の場合はそれが「ロックス」だった。だから、万人の人に「ロックス」を読もうなんてことは大きな声で言えない。当然、時代も変わった。ただ、10年前のぼくのように何かしら得体の知れない異物を感じている人は一度、触れてみてはどうだろうか? ぼくのようにぴったりの処方箋になる保証はないけれど、損はしないと思うよ。 副作用の責任は持てないけれどね。 |
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ロックス/折戸祥子(27歳) この作品を読んだのは18の時だった。「あの頃」の私は退屈な日常から逃げ出すように「ロック」という名の熱病にかかっていた。貪欲に吸収しようとあがき、これなしには生きていけないと思っていた程。そんな時に『ロックス』というタイトル、そして山川健一の作品となれば、手にとらないはずがなかった。あれから約10年の歳月が流れた。そして「現在」の目で再び、この作品を読むことにした。 「あの頃」の私は、『ロックス』の世界に憧れていた。私の経験したことのない“Sex & Drug & Rock’n Roll”がここには詰まっていて、私はアキラのような人間になるべきだと感じていた。走り続けなければいけない、と。オサムのようにもろく危うい心の持ち主にはならない! 優子のように崩れたりはしない! 星野のよう現実的にはならない! でも、杏子のように美しくありたい。 「現在」の私は、アキラのような強固な意志はない。オサムのように弱い面もある。ただ、Drugに溺れるほどには自分を見失ってはいない。優子のように崩れかけたこともあったっけ…。星野のような賢さもおぼえてしまった。 杏子のように美しくは…。 ただ、「あの頃」も「現在」も感じるエネルギーは不思議と同じなのだ。バンド活動もDrugも体験したことはないが、この物語はそれらを感じさせてくれる。 Drugによる恍惚と恐怖の感覚。“ロック”の衝動と興奮。時には優しく包んでくれるのに、時には肉体も精神も切り刻まれそうになる。足かせのように重くまとわりついてはなれない。 だけど、主人公たちは誰もが自分の“EXIT”を見つけようと必死だ。彼らに共通する意識は『あきらめない(=転がり続ける)』ということではないだろうか? アキラは“ロック”を、オサムは“ギター”を、優子は“バンド”を、星野は“成功”を、橋中は“音”を、杏子は“愛”を。 皆、それぞれにイノセントで精一杯息をしようとしているのではないか? それが汚物にまみれる時があっても、スポットライトの下に自分が存在する瞬間もあるのだ。人生はコインの裏と表のようなものだから。 この作品の最後の解説に代えて著者へのインタビューが載っていた。そこで健さん はこう語っていたのが印象に残っている。 「問題は残されている。それは、優子って女があのままでいいのかってことさ」 「あの頃」の私はうなずき、優子はどーなるの? 健さんは無責任だ! と怒りさえおぼえていた。 だが、「現在」の私は違う。優子はきっと大丈夫。だって、アキラが<アイランド>を完成させ、オサムと演奏したのだから。その時、きっと彼女も一緒に演奏し、スポットライトを浴びていたはず。彼女はきっと未来への光を見た、と。(それに女はタフだからね!) そうして、『ロックス』の一員に自分もなるのだ。とさえ思っている。著者はこの作品に対して後悔(?)しているようだが、私はそう悲観することはないと思う。この作品は確かにヘヴィなもの(10代の私にはキツカッタ)だが、私はこの作品からどーしようもないこの世界を生き抜くためのスピリットをもらったのだから。そしていつか、ロックンロールの神様に会えることを楽しみに私も生き抜いていきたい。 |
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十年後の『蜂の王様』/塚本 豪一(32歳) 「蜂の王様」の奥付けを見ると初版が「89年5月30日」となっている。ちょうど、10年が経ったのだ。10年前、というとかの悪名高きバブルの時期であり、今更言うのも気が引けるが、国を挙げてのどんちゃん騒ぎをしていた頃だ。 しかし、この作品はそんな時期に書かれいて、しかもその派手な題材にも関わらず、とても静かな印象を読み終えた後に残す。著者の他の小説と比べても、その印象は変わらない。 一つには、あくまで主人公の内面を軸にストーリーが展開していくという点が挙げられるだろう。まわりがどんなに騒がしくても、心の動きを丁寧に追っていけば、おのずとプールに張られた水のように穏やかなものとなる。何しろこの主人公はどんどんと孤独感を強めていくのだから。 そしてもう一点は、その主人公の内面が、実は著者自身の内面であるという点である。高見沢俊彦という実在の人物のペルソナを借りて、そしてそれゆえに他の小説(自伝的なもの)よりもはるかに生々しく自分自身の内面を吐露している。登場人物として、著者らしき小説家(杉本)が出てくるのだが、別人であるはずの「高見沢俊彦」に「山川健一」を強く感じる。杉本とは、我々のイメージする「山川健一」の姿であるが、もっと生身に近い「山川健一」は「高見沢俊彦」の方なのではないか、と。 そして著者は、あの浮かれた時代の中でも、なんとか自分を見つめ直し、追い込んでいったのだ。それがこの小説の、緊張感のある静けさを与えているのだろう。 しかし、当時多くの受け手はそうはとらなかった。なまじ作者に似た「杉本」が出てくるために、「高見沢俊彦」が作者自身であるとは考えなかったのである。「杉本」が存在するために、「高見沢」にはより著者の内面に迫った描写ができる…しかし受け手はそれを著者ではなく実在の「高見沢俊彦」の内面を書いたものであると受け取ってしまう。非常に危険な試みであり、実際には大きな誤解を招いてしまったようだ。 10年が経って、ふと、こう考えることがある。「彼は、高見沢俊彦は今、何をしているのだろう?」と。 もちろん現実の「彼」は、今もバンドを続け、次々にアルバムをリリースし、精力的にツアーを行なっている。そうではなくて、私が知りたいのは小説の中の、著者の分身である「彼」のその後だ。 私には、「彼」が現実の「彼」とは、全く違う道を歩いているような気がしてならない。バンドを解散し、ブルーズ・ギタリストをしているかもしれない。それともミュージシャンをすでに引退し、幸せな家庭を作っているのかもしれない。いずれにせよ、「彼」は現実の「彼」とは別の人生が用意されているように思える。 実は、その後の「蜂の王様」を読みたい、という非常識な願望を持っている。「もう、あんな目にあうのはこりごりだ」、と著者自身は思っているかもしれない、いやきっと思っているのだろうが。 10年を経て、「彼」(実在の高見沢俊彦)と「彼」(小説の中の、つまり作者の分身)の人生が再び交差する。そこにはきっと新しい物語が、生まれるはずだ。 |
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単純化された感情(黒い雄牛を10年振りに読んで)/佐藤和哉(38歳) そいつとの出会いはレコードジャケットだった。味のあるイラストとキングオブデルタブルースというタイトルだけでそのレコードを買った。雑音だらけのその音楽を1回聞いてその後は全く聞かなくなった。その頃聞いていたポップミュージックとは全然違い、正直いいとは思わなかった。ある日、山川健一という人の本を読んだ。確かキースリチャードのインタビューが載っていた文庫だ。ストーンズはバンドでやっていたけど、それほど好きではなかったが、何となく買って読んでみたくなったのだ。そこでブルースを知った。ストーンズにも興味を持ち、レットイットブリードとベガーズバンケットを買った。そこで見つけたのがロバートジョンソンだった。レコードを持っていたことを思い出し久しぶりに聞いてみたが、やはりいいとは思えなかった。その他のブルースも同じ。ブルースで聞けるのはストーンズだけ。ストーンズの音楽はどんどん好きになっていった。それからみんなと同じように年をとり約10年たった。その間もブルースを理解しようと、雑誌を読んだり、CD、ビデオを買ったりしたがストーンズ、クラプトン、ジョニーウィンターのようなフォロワー(白人ブルース)以外は心底良いとは思えなかった。ある日、ブルースが突然、恋しくなった。それも会社で仕事をしている時に聞きたくなった。露天で売っている廉価版のオムニバスCDが残業のBGMとなっていった。自分がブルースを聞けるまでに10年以上かかった。その間、同じ会社で同じような仕事を繰り返し、たぶん平凡な毎日を送っていた。もちろんいろんなことがあったが、その節目にブルースは必要なかった。たぶん拒絶しているかのようでブルースのパターンをカラダが記憶していた。ただ、その再生装置のスイッチが入っていなかっただけなのだ。日常の繰り返しの中にあるもっともパターン可されたものを持っているかどうか。そのパターンに、単純に感動できるかどうか。そういう感情を持つようになった時、再生装置のスイッチが入ったのだ。自分で理解しようと感動しようと努力をしたもので、最も手強かったのがブルースだった。今、自分の感情のシステムが単純化された時、ブルースが聞ききたくなった。ようやくブルースの順番が回ってきた。感情のシステムは人それぞれ違うOSで動いている。私のデスクトップにようやくブルースのアイコンが現われてくれた。「黒い雄牛」を10年振りに読んで、自分とブルースの関係が少し見えてきた。 ※「黒い雄牛」は当初『Rocks』の収録作品に載っていましたが、次回以降、どれかの巻に収録される予定です。 |
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