ぬいぐるみ

油絵=建部弥希
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 アスファルトの路上に叩きつけるように、雨が激しく降っていた。水銀灯の光の中で、雨足は白く見える。時折、レストランの広い窓ガラスにも、大粒の雨が吹きつけた。私は、指の先で、窓ガラスの曇りを拭ってみる。
 レストラン専用の駐車場の向こうに見える、クルマの流れは、いつもよりずっとゆっくりしていた。どのクルマもみな派手に水飛沫をあげながら走り去って行く。
 この店にくるまでの間、私は前のワゴン車のテール・ランプをガラス越しに確認し、充分すぎるほどの車間距離を保ちながら、慎重にクルマを運転した。タイヤも擦り減り、あちこちにガタがきはじめたAT車だったから、スリップしないように、もちろんオーバ−・ドライブのスイッチは切ってあった。
 だが、それにしても、私はいつからこんなに慎重なドライバーになってしまったのだろう。いつのことだったか、妻の加菜子が助手席で大袈裟にため息をついて、こう言ったことがある。
「まったく、十年前のあなたはレーサーにだってなれるくらい速かったのにねぇ。黄色の信号でブレーキ・ペダルを踏みこむなんて、信じられないわ」
 メタクック・シルバーのごく普通のセダンが、ウィンカーを点滅させながら、パーキング・エリアにゆっくりすべりこんでくる。雨の中だったし、クルマのウィンドウが曇ってしまってよく見えなかったが、私にはそれが父のクルマだということがすぐにわかった。
 あきれるほど明るく照明された店内に入ってきた時、父は背広の肩が濡れているのが気になるらしく、ハンカチを出して丁寧に雨の滴を拭った。

雨のち晴

 私は挙げようとした右手をテーブルの上に戻し、セロファンに包まれた煙草のパッケージをつかむ。父を見ながら、一本抜きとった。
 満足するまで肩や髪を拭くと、父はようやく広い店内を見回した。だが、右手にハンカチを握ったままレジスターの前に頼りなげに立った白髪の彼は、なかなか私を見つけることができない。
 私が父と会うのは、一年ぶりのことだった。猫背気味の姿勢。くたぴれかけた濃いグレーのスーツと、地味なネクタイ。眼顔をかけ、今でも昔の写真とほとんど変らずに痩せている。地方銀行を何年か前に停年退職になった男。
 そんな彼は、「すかいらーく」のレジの前では、とても非現実的に見えた。
 あるいは、「すかいらーく」のほうが環実感に欠けているように見えた。とにかく、私の父親は、どう考えても「すかいらーく」には似合わなかった。私は、待ち合わせの場所にこの店を指定したことを少しばかり後悔する。だが、東名高速自動車道を三時間ばかり走って海辺の町からやってくる彼だって、用賀インター脇の「すかいら−く」と言えば迷わないだろう、と思ったのだ。もちろん他意はなかった。
 ようやく私の姿を確認すると、彼はゆっくりこちらに歩いてきた。いつもの癖で、右肩が少しばかり下がっている。
「待ったかな?」
 父は、私の向かいのベンチ・シートに腰を下ろしながら、開き慣れた低い太い声で言った。ゴルフで陽に灼けた、頼の削げた顔。
「そんなでもないよ。東名、混んでた?」
「いや、そうでもなかったけど、この雨だものな」
 ウェイターがやってきて、父にメニューを手渡した。彼はメニューをそのままテーブルに置くと、コーヒーをひとつ注文する。ウェイターが、いつものように注文を繰り返す。ご注文を繰り返させていただきます。コーヒーをおひとつ、ですね? ええ、と父親のかわりに私。
 メニューを胸に抱えたトレイに戻すと、ウェイターは無表情のまま向こうへ行ってしまう。
「この雨には、まったくうんざりするね」と私。
「まあ、仕方ないさ。加菜子さんと由加ちゃんは元気か?」
「うん」
 私は、妻と、四歳になる娘と別居してもう半年になることを、父には話していなかった。どんなに的確に私がその理由を説明できたとしても、父は納得しないだろうと思ったからだ。

nextモ




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