ぬいぐるみ

油絵=建部弥希

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 彼女達が出て行ってから、ただの一度も連絡はない。一本の電話さえないのだ。いや、一度だけ娘の名前で、クレヨンで描いた下手くそな私の似顔絵が送られてきたことがある。だが、果たしてあれを連絡と言っていいものかどうか。
 それは、かろうじて人間の顔だということがわかる程度の出来映えだった。口の周囲が、茶色のクレヨンで汚されている。最初、私にはそれが一体何なのかということがわからなかった。深夜、キッチンのテーブルで一人ウィスキーを飲んでいた時、ステンレスの流し台に映った自分の顔を見てわかった。
 茶色のクレヨンは、無精髭なのだった。
 返事の絵を描こうとして、私はテーブルに画用紙を広げてみた。娘が置いて行ったクレヨンも用意した。
 だが、描くべきものを、どうしても思いつけないのだ。

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 特に連絡がないところを見ると、たまには風邪をひいたり下痢をしたりすることがあるにせよ、たぶん二人は元気なのだろう。
「おまえは、忙しいんだろうな」
「そうでもないよ」
「先月の雑誌におまえが撮った写真が載ってたな。いや、買っちゃいないがな」
「北海道の原生林の写真だろう。まだスーツなんか着てるのかい?」
 コーヒーが運ばれる。父がウェイターの顔を見上げ、その時、光の加減で、白いものが混じった無精髭がかすかに光った。
「まあ、癖みたいなものだな。これでないと落ち着かないんだよ。それに、今でも時には必要なこともあるんだ」
「どう、塾のほうは?」
 銀行を退職した後、子供が好きな父は近所の子供達を自宅に集めて、ささやかな学習塾を開いていた。それが、若い頃教師になりたいと思っていた父親の夢だった。
 毎朝のように海で釣をし、時々は銀行の頃の仲間とゴルフを楽しみ、子供達にのんびり勉強を教える。そういぅ生活をしたい、と口癖のように言っていたものだ。だが、コピーやパソコンまで揃え、自分で模擬テストの問題まで作るという熱の入れようらしい。
「新聞にチラシを入れたりしてな。でも、大手の予備校に今年から小学生のクラスができたから。私立の中学を受験する子供が、何人かそっちに移ったし。どこの世界も同じだよ」
 私はうなずいた。
「急に呼び出したりして、悪かったな」
「遠慮なんかしなくていいんだよ。どんなに忙しい時だって、コーヒーを飲む時間ぐらいあるさ」

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 父は窓の外に視線をそらす。相変らず、大粒の雨が降っていた。しばらくしてから、父はこちらを向き、ため息をつくと、用件を切り出した。
「いや、要するに電話で話した通りさ」
 コーヒーをひと口飲み、
「父さんはな、ほんとにちっとも気がつかなかったんだ。でも、だいぶ前からだったらしい。ほんとのところはわからんがな。でも、おはずかしい話だが、未だに信じられないというのが正直なところだ」
「そうだろうね」
「おまえ、ほんとはこんな話開きたくないだろう」
 大型トラックが、窓の向こうを通り過ぎて行く。
「事実なら、仕方がないさ」
 父は二、三度うなずいた。
「で、どうするつもりなの。離婚するの?」
 父はちょっとばかり咳きこみ、コップの水を飲む。
「もう、きちんとしたよ。届けは出した」
「そう」
「もちろん、万が一母さんが一人になっても、今後の生活に困らない程度のことはした。いや、それだって父さんにしてみれば、正直言ってたいへんな額ではあったけどな。だけど、まあ、父さんには学習塾もある。その点は、二人ともおまえに心配をかけることはないさ」
 母は、四、五年前からコピー・ライターの真似事のようなことをしていた。コピーといっても、地元のスーパーや商店の広告が主な仕事だ。パートタイムで働いていたスーパーのチラシの宣伝文句を考えたのが、彼女の最初のコピー・ライティングの仕事だった。
<誰もが喜ぶスーパーな値段>
 ヘッドコピーは、確かそんな文句だった。
 最初は趣味みたいなものだったが、少しずつ忙しくなっていった。彼女は、いろいろなものを褒め讃えつづけた。そういうことは、昔から得意な性格だったのだ。時たま私が妻と子供を連れて行くと、得意になって着ているワンピースや石鹸を見せたりしたものだ。みんな、彼女が褒めそやした商品の見本だった。家にあるさまざまな品物には、恐ろしく紋きり型のコピーがぺったりと貼りついていた。<あなたのオフ・タイムを華麗に演出する>ワンピースだとか、<もちろんレンジもOK>の食器、あるいは<暮らしに匂いを、お肌にうるおいを!>の石鹸なんてものだ。

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建部弥希プロフィール


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