午後の光が歩道に落ちている。昼休みが終る頃だった。いつものことだったが、このまま家に帰ってしまいたくなる。家に帰ってシャワーを洛び、好きな音楽を聴きながらそのまま眠ってしまいたい。
 ぼくは優秀な代理店マンでこれまでの仕事は順調だったと言うべきだろうが、近ごろなんだか憂鬱なのだ。いろいろなことを仕掛け、メディアを駆使してパブリシティを行い、それでその商品が売れても、なんだこんなものかという冷めた感想しかのこらないのだ。少し、疲れているのかもしれない。
 ぼくは煙草に火をつけ、それから腕時計で時刻を確認した。指定された時刻に、まだ十五分ほどあった。
 仕方がなく、近くにあった本屋に入った。週刊誌を立ち読みするつもりだった。だが、一冊を手にとりぱらぱらとめくつてみただけで、うんざりしてしまう。株と金と戦争と環境汚染とビジネスマンの心得と、女とセックスと健康の記事ばかりだ。男性誌というのは、どうしてこうも同じ内容の誌面ばかり作るのだろう。
 男のぼくでも読めそうな女性誌はないものかと何誌か手にとってみたが、こちらはどれも結婿と恋愛とエステティツクと……そんな記事ばかりだ。
 混雑した店の奥に行き、文庫本の書棚を眺めてみる。端からずっと本の背を眺めていく。ほとんどがぼくが知らない新しい作家の本ばかりだった。
 だが、ある本の背表紙でぼくの視線は止まる。もう何年も前に友達に借りて読んだことのあるアラン・シリトーの小説だった。引き抜いてみると、表紙のイラストもあの頃のままだ。
 こいつをもう一度読んでみようかな、と思った。そうだ、これからは新しい本を読むのはよそう。これまでに読んだことのある本だけを、もう一度順番に読んでいくことにしよう。なんだか、未来のことを考えるのが億劫だ。人生の楽しみはもう全部使い果たして、あとはただだらだらと坂を下っていくだけのような気がするのだ。三十三という年齢のわりには、今までいろいろなことをし過ぎてしまったのだろうか。
 レジヘ行くと、長い列が出来ている。
 うんざりだな、と思う。ぼくは舌打ちすると文庫本を手に持ったまま、店の外に出た。誰にも答められなかった。
 時刻を確認すると、二、三分過ぎてしまっている。ぼくは足速に見慣れたビルディングのほうへ歩いていく。コンピュータのソフトを扱う会社だ。ガラスに自分を映し、タイが曲がっていないことを確認すると建物の中に入っていった。
 受け付けの女がにこやかな笑顔を作り、いらっしやいませ、と言う。
「サンクスの影山と言いますが、事業部の平松課長さんをお願いしたいんですが」
「お約束ですか?」
「そうです」
「少しお待ち下さい」
 ロビーでは、何組かの男達が打ち合せをしている。みんな同じようなスーツを着ていやがるなあ、とぼくは思う。まあ、ぼくにしたところでそうなのだが。
「今降りてきますので、しばらくあちらでお待ち下さい」
「はい、どうも」
 ぼくは窓際のテーブルヘ行き、腰を下ろした。一応灰皿は置いてあったが、ロビーで煙草を吸っている者は誰もいない。平松課長が煙草を吸う人だったかどうか思いだそうとして……だが、彼の顔さえはっきりとは覚えていないことに気がついた。まあ、いい。我慢しよう。ポケットが重たかったので、文庫本をテーブルの端に置いた。
 やがて平松課長が、一人の女性社員を伴ってやってきた。
「企画書、できましたか?」
 学生時代はラグビーでもやっていたのではないかと思わせるがっしりした身体つきの平松課長は、腰を下ろすなりそう言い、ぼくは封筒に入れておいた企画書を手渡す。
 何もかもがビジネスライクなこの男のやり方がぼくは嫌いではなかった。ゴルフに誘ったり酒の席に誘ったりしなくていいところが気楽なのだ。
「キャンペーン・ガールを使うというところだけがひっかかるんだけど……」
「この間もおっしやつてましたね。今回の案では、TVのキャスター風の女性がパイロット店で商品とそれに伴うライフスタイルについて喋る、ということにしたんですよ。人選はこれからですが、若手の女流作家を起用するという方法もあります」
「ああ、それはいいかもしれないね」
 新しい商品のパブリシティに関する簡単な打ち合せは、すぐにすんだ。ゴー・サインは既に出ているのだから、あとは実行するだけだ。そのエネルギーを、この疲れ切った体のどこからしぼり出すかということだけが問題なのだ。
 打ち合せを終えぼくが席を立とうとすると、平松課長が思い出したように言った。
「そうだ。あなたにちょつと見てもらいたいものがあったんだ。すぐに戻りますから」
 彼が席を立ち、隣りの女性が少し緊張した表情でうつむいた。彼女は、黒いワンピースに、大きな金色のボタンがついた丈の長い黒のカーディガンを着ていた。髪は長く、きれいな二重瞼の目と、上品な口元が印象的だった。
「確か、初めてお目にかかるんでしたよね」
 ぼくはそう声をかけてみた。
「はい。今年入ったばかりなんです」
 顔をあげ、彼女はそう言った。
「お名前は?」
「木下と申します。小説なんかお読みになるんですか?」
「ああ、ちょっとね」
「シリトー、好きなんですか?」
 ぼくは、少し胸がときめくのを感じる。いろいろなものにうんざりしていた今日の気分が、澄んでいくのを感じる。
「ええ。あの、食事に行きませんか?」
 気がついたら、そう言ってしまっていた。
「はっ?」と彼女。
「飯、食いに行きましょうよ。今夜、あいてませんか?」
「そんなこと、急に言われてもこまります」
 その時、エレヴエーターのドアが開き、平松課長がやってくるのが見えた。早口で、ぼくは彼女に言った。
「今日の六時、向いのビルの一階にあるカフェで待ってますから」
 平松課長が元の場所に腰を下ろし、ぼくはまた真面目な代理店の男に戻った。彼が持ってきたのは、他社の新製品のパンフレットだった。
「これ、一応目を通しておいて下さい」
「ああ、それはもう入手しました。でも、一応お預かりしておきます」
 ぼくがそう答えると、平松課長は煙草をくわえ、火をつけた。そして、言った。
「今日が、期限でしたね」
 彼の言葉の意味がわからず、ぼくは少し慌ててしまう。
「何か、ありましたっけ?」
「いや、多国策軍がイラクに求めたクェートからの撤退期限ですよ」
「ああ……。でも、まさか戦争にはならないでしょう」
「まあね」
「あれはアメリカの一種の脅しでしょう。しかし、今朝もテレビ見てたんですけどね、軍事評論家ってあんなにたくさんいたんですかね?」
「しかも、戦争なんて知らないような若い人までもがねえ」
「もし万が一戦争なんてことになったら、どうなりますかね?」
 煙草を灰皿にこすりつけながら、平松課長が言った。
「うちは、海外支局の者を一旦東京へ呼び戻すことにしているらしいですがね。予定されていた国際会議はキャンセルされるでしょうね。それに、長期的に見れば、回復不可能な不況になるでしょう」
 課長の隣の彼女が、眉を寄せた。
 ぼくは席を立ち、一度だけ促すように彼女の目を見た。

 窓の向こうには緩やかにカーヴする道が見えている。その向こうは海だ。岬の端には、灯台の明りが点滅している。
 風はなく、海の表面は辞かだった。
 ピート・タウンゼントの音楽をかけていたから今は聞こえないが、音楽を消せば、波の音も届くはずだった。ブリリアントなブルースにさよならするんだ、とピートは歌っている。太陽の光が射すカフェでおれは朝を過ごしたいんだ、と。
 ぼくはお茶の用意をした。ダージリンに少しだけセージを加えたお茶だ。明りは、ティー・ライトだけだ。海沿いの輸入小物ばかりを扱う店で、あんまりきれいだったものだから買ったちいさなローソクだ。ほんとうは紅茶をいれる湯を沸かすためのローソクらしかったが、ポプリが混ぜられてあり、いい匂いがするのでたまに一人でいる時に使ったりしていたのだ。
 不安な小動物のような目で、礼子が、ティー・カップを眺めている。小鹿のような眼だな、とぼくは思う。
「ここまで時間かかっちゃって、疲れたでしょう」
 ぼくは、そう言ってみた。
「うん。でも、大丈夫。いい匂いですね。ハーブ・ティー?」
「セージがちょつと入っているから。だけどこの匂いは、それだよ」
 ぼくはティー・ライトを指差した。彼女は、口の端に笑窪を作って微笑んだ。
 ぼくが海辺に部屋を借りてから、一年ほどになる。通勤には時間がかかったが、都内に比べると驚くはど家賃が安かった。それに、土曜日と日曜日は一日中浜辺でのんびりできた。一年前までは、都内のワンルーム・マンションで恋人の麻衣子と共同生活を送っていた。彼女はぼくが担当する企業のPR雑誌のモデルをしており、その後TVなどにも出演するようになった。その頃からなんだか感情がすれ違うようになり、別れることになった。それから、麻衣子はぼくと知り合う前につき合っていたボーイフレンドとよりを戻し、ぼくのほうは一人でいる。
 時々麻衣子から電話があり、食事したり酒を欧んだりすることがある。話題は、もっぱら仕事のことだった。意見を求められ、ぼくは感想を述べる。彼女はうなずきながら聞いている。今は、そういう関係だ。
「窓の外を見てごらん。海がきれいだよ」
 ぼくは礼子にそう言った。
「うん」
 そう答えながら、彼女は立ち上がろうとはしない。
 夕方、約束の喫茶店で待っていると、二十分ほど遅れて礼子はやってきた。おずおずと店内を見回し、ぼくと視線が合うとうつむいた。それから、まだ迷っているように、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
 ぼくは彼女を都内の気楽なイタリアン・レストランに誘い、それから海辺にあるこの部屋に招待してみた。偶然、彼女の家もそんなに離れていなかったからだ。少しの時間なら、ということで彼女は遊びにきてくれた。
「影山さん、おいくつなんですか」
「いくつに見える?」
「三十代前半でしょ」
「そう。三十三だよ。君は?」
「二十一です。短大出て、今の会社に入ったばかりだから。わたし達、ちょうどひと回りちがうんですね」
「ぼくが今の会社に入社した時、君はまだ小学生か」
 ぼくは、かるくため息をついた。
「いい部屋ですね」
「そう? ありがとう」
「殺風景で」
「あ、そういう褒め方はないだろう」
「ごめんなさい。でも、散らかり方が、男の人らしくて素敵だなと思って」
 ウッドのフロアーにはCDのケースや雑誌や、新聞や、灰皿や昨夜飲んだバーボンがのこったままのグラスが無造作に置かれている。もしかしたらこの子は、女の気配がないことに安心したのかもしれないな、とぼくは感じる。二十一でも三十一でも、そして四十一でも、女の人が考えることはどこか似通っている。麻衣子は確か、今年三十歳になるのだったな、と思い出す。
 ぼくはティー・ライトで照らされた礼子を眺める。きれいな子だな、と思う。だが、芯は強そうだ。
 ピート・タウンゼントはまだ歌っている。ブリリアントなブルースにさよならするんだ、太陽の光が射すカフェでおれは朝を過ごしたいんだ、と。うまいことを言うな、とぼくは思う。
 麻衣子はブリリアントなブルースだ。そして、礼子は神様がぼくにくれた太陽の光が射すカフェなのだ。
 礼子が胸に下がったペンダントを触っている。
「甘くていい匂い。ポプリの匂いね」
 ぼくは立ち上がり、テーブルを回る。彼女の隣りに膝をついた。目を見開き、彼女が黙ったままぼくを見た。
 礼子を抱き寄せ、キスする。二十一歳の彼女は静かになる。今までお喋りしていた唇が、微かにひらかれたまま、なすがままになる。
 礼子は目を閉じている。
 ぼくの唇と、彼女の唇が触れ合っている。不思議な感覚だった。
 カーディガンの上から、ぼくは彼女の胸に触れた。
「初めて、会ったのに、こんなこと……」
 礼子がぼくを押し戻し、小さな声でそう言った。
「出会いはいつでも突然なんだよ」
「わたしなんて、子供だと思ってない?」
「わからないよ、まだそんなこと。いろいろなことが、これから始まろうとしているんだから」
 ぼくは礼子を強く抱きしめる。
 今までとは別の時間が流れはじめる。

 誰かがぼくを揺すぶる。
 目を開けると、女の子の顔があった。礼子だった。
 幸福な気持ちが込み上げてくる。昨夜のことを思い出す。二人で抱き合い、それからシャンパンを開け、明日は揃って会社を休んで浜辺を散歩しようと約束したのだ。
 ぼくは彼女を抱き寄せる。
「ダメ。ねえ……」
「愛してるよ、礼子。愛しちゃったみたいなんだ」
「ありがとう。ねえ」
「おいで、こっちへおいでよ」
「ねえ、テレビをつけたらね……」
「テレビなんかいいから、こっちへおいでよ」
 ぼくはショーツとぼくが貸したTシャツだけの礼子をベッドに引き摺り込もうとする。
「戦争が始まったのよ」
「えっ……」
 寝ぼけた頭で、礼子の言葉の意味を理解しようとする。
「多国籍軍が、イラクを爆撃にいったのよ。イラクはほとんど抵抗もできなかったんだって。四十八時間以内に終結するだろうって」
 ぼくはベッドから起き上がる。リヴィングヘ行くと、TVがつけっぱなしになっている。テーブルの上の煙草に手を伸ばし、一本抜いて火をつけながらブラウン管を眺める。アメリカ軍とイギリス軍を中心にした多国籍軍の戦闘機が、バクダッドを空爆する様子が映し出されていた。
 画面はすぐに、空爆から戻ったばかりのパイロットの顔のアップになる。
 日本語のテロップが流される。
 ……燃える街はクリスマス・ツリーのようだった。
 兵士の一人がそう言っている。
 ブッシュ大統領の顔がアップになる。ぼくは、テロップを読む。
 ……ちょうど二時間前、多国籍軍航空部隊はイラクとクウェートに対する攻撃を開始した。われわれは失敗しない。われわれの目的は明確だ。サダム・フセインの軍隊をクウェートから退去させることにある。世界はもうこれ以上待てない。世界が平和のために祈る間に、サダムは戦争の準備をした。これは歴史的瞬間である。今夜わが軍が戦闘にある時、われわれは彼らと彼らの家族のために祈る。湾岸にいるわが軍および多国籍軍の兵士一人ひとりに神の恵みあれ。そして、アメリカ合衆国に引続き神の恵みあれ……。
 TVは次に、アメリカ軍の戦艦、ウィスコンシンから発射される巡航ミサイル、トマホークを映し出した。トマホークは低空飛行で飛んでいき、障害物を避けながら正確に目標に命中する、と解説される。
 ぼくは、鼓動が速くなるのを感じる。
 戦争が始まった?
 ブラウン管の向こう側の映像は、どこか作りもののような感じがする。コッポラが監督した映画か、TVゲームのような感じさえする。
「ねえ、どうなるのかしら?」
 ぼくが腰かけた椅子の隣に膝をついた礼子がそう言った
「人間が、死ぬんだ……」
「なんだか、信じられない」
「ああ、ほんとにそうだね」
 ぼくは呆然としたまま、答える。
 それから、ぼくはしばらくの間TVこュースを眺めていた。やがて、礼子が立ち上がってTVに近づき、スイッチを切った。
 テーブルの上には、ティー・ライトの燃え滓が置かれている。黒く焦げたローソクの芯が、なんだか忌まわしいものに見える。
 たった今も、戦闘はつづけられているのだ。たった今も、血を流し、のたうち回っている男や女がいるのだ。バラバラになった手や足が散らばっているのだ。
 昨夜の幸福な気分は、あの甘い匂いはどこに消えてしまったのだろう……。
 そう考えながら、ぼくはコーヒーを用意するためにキッチンヘ行く。
 一度ベッドルームヘ行った礼子が、きちんと服を着てリヴイングヘ戻ってくる。
「今日、どうする?」
 礼子が、そう言う。
「うん……」
「散歩に行く?」
「ああ、どうしようか」
 しばらく考えているぶうだった礼子が、言った。
「やっぱり、やめましょう。わたし、いつものように会社に行くことにする。きっと
海外の支店からテレックスが殺到していると思うから。もう、遅刻しているけど」
 ぼくは、黙ってうなずいた。
 叫び出したいのを、じっとこらえていた。

(1993年刊行『ふつつかな愛人達』所収)

◎写真=小川義文



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