ぼくが19歳の時に書いたのが、ブライン・ジョーンズを主人公にしたこの短編だ。ブライン・ジョーンズやランボーにのめり込むことによって、当時の少年はかろうじて自己というものを支えていた。その結果、小説とも散文詩ともつかない、こんな作品を一晩で書き上げたのだった。「天使が浮かんでいた」は「早稲田キャンパス新人賞」という学生新聞のささやかな賞を受賞し、ぼくのデビュー作となった。その時の選考委員が、五木寛之氏と秋山駿氏だった。
 後に「ブリティッシュ・ロックへの旅」の取材で、「クマのプーさん」を書いたA・A・ミルンの家を買い取ってブライアンが住んでいた家を訪れた時、深い悲しみの感情が込み上げてきた。
 写真は、その時小川義文が撮影したものである。

天使が浮かんでいた
故ブライアン・ジョーンズに捧げる

写真・小川義文

                                            山川健一

 君には言っておこう。
 悪寒や、慄(ふる)えや、そして痛覚を信頼してはならない。君は自分自身を垂直に、下降して行かねばならない。錯乱、混沌、汚濁の名で呼ばれる<現実>を、もう一度抽象し、濾過(ろか)し、沈黙を守らねばならない。
 優しい性器を見ろ。既に、衰弱した肉体の悦楽は<存在>と同義であることを止めようとはしない。
 君が男なら、彼女の性器に手を触れるのだ。君が女なら、両掌を胸で組み含わせて目を閉じるのだ。
 瞬時に<隔たり>を浮かび上がろうとする凝縮された衝動を覚えてはならない。悦楽とは錯覚であり、君にも俺にも汚らわしい肉の性器があるだけなのだから。
 ところでいったい君はどれほどまでに裸であり得るのか? 君は怯(おび)えているか? 慄えているか? 寒さに耐えているか? 背後に閉じた扉の向こう側に、何を置き去りにしてきたのか? 人間はどれほどまでに<己れの神>たり得るのだろうか……? 
 俺の言葉が弛緩(しかん)した都市の空気を伝わり、開け放たれた窓を通って君の部屋で響く。それにしても、何て空虚な響きだろう。響きさえしないじゃないか。

 一九六九年七月三日、ブライアン・ジョーンズ死す。彼はローリング・ストーンズをやめたばかりだった。原因は心臓マヒ、あるいは溺死。だが彼が麻薬を常用していたことから、ドラッグによる中毒死ではないかと推測される。ブライアンはサセックス州ハートフィールドにある自宅のプールにうつ伏せになって浮かんでいた。享年、二十六歳。
 彼の死後、友人の一人は次のように語った。
「彼はプールの方へただ歩いて行く、そんなふうに見えた。まるで、ふちから落ちてしまったようだったよ。ブライアンは、悪魔的なことをもてあそぶ向こう見ずな男でね。むやみにドラッグを欲しがったり、ナチスの制服を好んだり、不意に残酷なことをやったりという具合さ。悪魔と戯れるうちに、おそらく彼は爪を深く食い込ませ過ぎてしまったんだ。とどのつまり、ブライアンは遊ぶ玩具の種がつきた小公子というところだった。彼はいつまでも子供だった。だから私達には判らないところの多い人だったね。実際、彼はファナティックだったよ。繰り返し行なわれた裁判は彼を衰弱させた。だが彼は、ドラッグをやめなかった。療養所に身を委ねて罪を免れようとした時ですら、彼はヘロインをたずさえて入院したんだから。迷路に迷い込み、次第に、ブライアンはバンドに不用な人間になっていったのさ。彼は、ローリング・ストーンズの汚点だった。ストーンズがいくら懸命にこすってもこすり落とせない汚ならしい染み……。ブライアン・ジョーンズが世の中の為になる何をしたのかって? 彼は何もしなかったのさ。実際、何もしなかった」

 ベッドの中で目を覚ます。隣りでは黒人女が軽い寝息をたてている。夢と現実との狭間を行きつ戻りつしながら、俺はまたあの晩のことを思い出していた。
 もう二年、或いは三年ぐらい前のことだったかも知れない。俺はその頃ロンドンにいた。ロンドンの街は嫌いだ。なぜって、理由なんて判りゃしないさ。ただ、嫌いなんだ。街並も人間も、銀色の敵意を剥き出しにするのだ。
 その晩、俺はナイト・クラブへ行った。するとボーイが俺のしゃれた服を見て、門前払いを食わせようとする。俺はぴったりとしたピンク色のスーツに、カラフルなスカーフを巻いていた。
 俺は札束をポケットから出して、奴に言った。
「俺はビート族なんかじゃないさ。自分の食いぶちは自分で稼いでいる。二流扱いはやめにしてくれよ。俺は断じて、ヒッピーなんかじゃない」
 俺はジンを飲んでいた。隣りで飲んでいたブロンドの女は、左の掌を俺の内股に回していた。女は俺に何かつまらないことを語り続けていた。その頃、俺の体は衰弱していた。病院にかつぎ込まれ、やっと退院したばかりだったのだ。歯が何本か抜け落ち、新しい合成樹脂の歯はまだ他人のもののようだった。麻薬不法所持で入獄したワームウッド・スクラッブズでの生活はさほど堪えなかったけれど、禁断の病院生活は苦しかった。
 肩を叩かれた。
 振り向くと誰かが、おまえはローリング・ストーンズのブライアンだろう、って言うのだ。俺は黙ってジンを飲み続けた。すると、いきなり殴りつけられたのだ。俺は床に転がった。酒を浴びせられた。腹を蹴り上げられ、(うめ)呻くしかなかった。脚にも腰にも力が入らなかった
 ブロンドの女は、はしゃいでいた。
 俺はゆっくりと、その地下のナイト・クラブの階段を登った。腕時計を見た。午前三時だった。
 扉を開ける……空が明るかった。
 光は俺に、空を見ろ、と(ささや)囁いているようだった。空を見ろ、そして天使の顔を見ろ。俺は天使の声を聞いた。
 光は天使だった。風は囁きだった。
 天使は俺に、何か人々のためになることをせよ、と告げた。そして、おまえはいったい何をしてきたのだ、と。涙があふれた。俺はいったい、何をしてきたのだ? 
 俺はくい込んでくる頭痛を耐えていた。あの幻影は俺についてまわった。俺は、自分の望む通りのことをやった。だが、一日生き延びれば、それだけ確実に疲労が堆積していくのだ。

 フラストレーションに固執しろ!

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